sakatori[sm]

黒猫

 隠岐のことを考えるとき、最初に思い浮かぶのはあの笑顔だった。
 どの季節も肌荒れとは無縁の瑞々しい輪郭だった。手入れの行き届いた唇は艶やかで、いつも緩い弧を描いていた。見慣れていても微笑まれると目を逸らせなくなるような。
 嬉しいときや楽しいときはもちろん、負の感情を少々抱いたときですら笑ってやり過ごすのが彼だ。困ったなあと眉を下げて笑う。悲しいと目を伏せて笑う。
 物の捉え方が大らかで人のよさが表情に出ている。だから彼の穏やかに笑う姿がすぐ思いつくのだった。
 でも、いつもの笑顔が消える数少ない瞬間を水上は知っている。

「人間は一人で生きられへんと思うんです」
 吐息が届く距離で隠岐が呟いた。彼がまだ起きていたことを知った水上は、掛け布団を引き上げて身体が冷えないようにしてやった。
 一人用の布団と枕を二人で共有していた。部屋はひんやりとした空気で満ちていたが、布団の中は二人の体温ですっかり温まっていた。
 保安灯にした部屋に秒針の音が響いている。
「なんや、急に。難しい話か?」
 宥めるように彼の頬を掌で撫でた。そのまま手を伸ばし続けると耳を通り越して後頭部に触れた。癖のある直毛に指を絡めるとさらりとした感触があった。耳も髪もすっかり冷たくなっている。
「いや、ミャーちゃんのことなんですけど……」
「またか。何回目や。あと自分ちの猫をちゃん付けするな」
 自分の飼い猫だけでなく、カフェの猫や野良猫までもカメラに収めて専用のフォルダを作っている彼は自他共に認める愛猫家だ。
「三門に来るまでは寝起きに猫がおってくれたのに、今は一人なんが寂しいんですよ。布団が冷たい。おれが寝坊したら顔を舐めて、それでも起きんかったら首を噛んだり、身体に乗っかったりしてくるんですよ。可愛いでしょ」
「……分からん」
 動物を飼ったことがない水上はペットといる生活というのがいまいち想像できない。
 隠岐曰く猫は可愛い。見た目はもちろんのことその性質も。身体はすらりとして柔軟性がある。艶のある毛は手触りがいい。気ままなように見えて人に寄り添う社交性がある。だから愛おしいのだ、と。
 それこそ暗記するほど耳にした説明だが、聞けば聞くほどそれは隠岐自身のことを指しているのではないかと水上は思った。
 容姿端麗、身体に女性的な曲線はないが華奢でしなやかだ。骨が目立って抱き心地はよくないが惚れた弱みでその固さや重さすら愛おしい。艶のある髪を撫でるのが好きだ。色気のある低い声が情事のときはか細く上擦るのを聞くとたまらない。
「家族はおれが三門に行く理由をもちろん分かってくれとるけど、猫は理解できんから、おれに捨てられたと思ってるみたいです。それがもどかしいんです。今も猫はおれにとって家族で、何年かしたら家に帰るから待っとってほしいって伝えたい」
 完全な意思疎通が不可能だからこそ人間は動物を愛せるのだと水上は考えていた。少なくとも理由の一つにはなるだろう。もし人間同士のように言葉でやりとりできたらきっと衝突する。そして消耗する。だが動物と人間は正確なコミュニケーションが取れないから互いの行動を自分の都合のいいように解釈する。気ままな動物と表現される代表の猫も実は日々真剣に考えて生きているかもしれないのだ。
(俺だったら寂しい思いはさせんけどな)
 気取った言葉が脳裏をよぎる。あまりの馬鹿らしさに笑いが込み上げてきそうだった。写真や動画でしか見たことがない隠岐の飼い猫に対し、嫉妬に似た感情を覚えたなんて言えるわけがない。
 そもそも本気で猫と張り合うつもりはない。隠岐とて飼い猫と恋仲である水上は比較できないだろうから。あるいは人間が猫に敵うはずがないと一蹴するかもしれないが。
 いつもは赤子のようにやや青みがかった眼球が今はほんのり赤くなっている。多分泣いてはいないだろうが、何か思うことがあるのかもしれない。これもホームシックの一つだろうか。
 ここから先に踏み込むのは何となく憚られた。人好きのするようで案外パーソナルスペースが広い彼である。水上も細かく聞き出すのは性に合わない。
 言葉をかける代わりに隠岐を抱き寄せる。彼は促されるまま水上の腕に収まった。何度か瞬きを繰り返して完全に瞼を閉じた。無防備に寝顔を晒している。
 隠岐の感傷を馬鹿らしいと一蹴しなかったのは水上なりの優しさだ。
 動物を愛する人間の気持ちを水上は想像した。分かり合えないからこそ愛おしいのだと。
 猫に例えるには大きな恋人を抱いて、水上も目を閉じた。