sakatori[sm]

木曜五限と金曜二限だけの想い人

 スライド式のドアを開いて中をぐるりと見渡すとまだ誰もいないようだった。司書の先生の姿もない。
 少し湿気があって、古い紙の独特の匂いがする図書室が好きだ。二年連続でじゃんけんに勝って図書委員になれたのは幸運だと思う。どうせ何かの委員会に入るなら、やりたいことがあるほうがいい。どうか三年生でもなれますように。
 私はカウンター下の棚に置いてあった、コピー用紙とマーカーを取り出した。ポップの締め切りは今週末だから、人が少ないうちに早く作業を終わらせたい。
「今日はきみが当番なんだ」
 不意に言葉をかけられて背筋が粟立つ。声がした方向を見ると、本棚と本棚の間から王子くんがひょいと顔を出した。何冊か本を抱えてこちらに近づいてくる。
「うん、そうだよ」
「じゃあ貸し出ししてもらえるかな」
 私はパソコンに視線を落とした。画面は明るいままだから先生はさっきまでここにいたのだろう。生徒が生徒のプライバシーを扱うのはよくないということで、貸し出しの作業は基本的に先生が行っている。私もそうするのがいいと思っていた。
「それは先生がやってるんだけど」
「残念。すぐ帰ってくるかな?」
 王子くんはちらりと壁時計を見た。急ぎの用事でもあるのだろうか。早退や遅刻が当たり前のボーダー隊員が放課後までこうしているのは珍しい気がする。
 二人きりの部屋がしんと静まりかえった。気まずいから先生は今すぐに帰ってきてほしい。
「……王子くんがいいなら私がやるよ」
「じゃあお願いしようかな」
 居心地の悪さに耐えかねて申し出ると、王子くんは柔らかく微笑んだ。他の男子のような荒っぽさやだらしなさがない王子くんはいつもきちんとしている。隙がないともいう。正面から向き合うと少し緊張するくらいには見た目がいいし、よく通る低めの声は耳に残る。
 王子くんが数冊の本と利用者カードをカウンターに置いた。
 チェーホフ、安部公房、流行を三年ほど過ぎたラノベ二冊、そして将棋の本。
 読書傾向に統一感がなくて面食らった。その中で一番意外だったのは。
「……将棋、好きなんだ」
 つい口に出してしまった。ただ本が好きだというだけで気取っているとからかわれるのが嫌だから、私も人の好みに触れないようにしようと思っていたのに。
 安部公房いいよね、不条理の中にもユーモアがある『壁』が私は一番好き。ロシア文学は重苦しくて冗長なイメージがずっとあったけど、チェーホフのおかげで好きになれたよ。本来知るべきではなかった王子くんの情報に触れたお詫びに、自分のことも開示しようとしたけど結局言葉にしなかった。王子くんが私の本の好みに興味があるなんて思えないからだ。
「いや全然」
 私の動揺をよそに、王子くんは人好きのする顔のままあっさり否定した。私は渡された利用者カードを落としそうになった。
「ぼくは元々チェスが好きなんだ。でも最近将棋に興味があってね。最初はスマホのゲームをやってたんだけど、体系的にまとまった本を読んだほうが学習しやすいと思ったんだ」
 あまり聞かないようにしようとしても王子くんの言葉が頭の中に染み込んでいく。いつ頃から将棋を始めたのだろう、誰と対戦しているのだろう。下世話な興味が湧いたけど今度は自制心が働いた。
「……はい。貸出期間は二週間」
「ありがとう。おかげで助かったよ」
 バーコードを読み取った本と一緒に利用者カードを差し出すと、丁寧にお礼を言ってくれた。
 静かな図書室にスマホが振動する音が響いた。スラックスのポケットからスマホを取り出した王子くんは画面を確認してからすぐ戻した。そしてそのまま図書室から出て行った。
「今用事が終わったところだ」
 薄いドアの向こうから王子くんの声が聞こえた。そして何人かの足音。
「あまり図書室に行ったことないけどいいところだね。ポカリもたまには本を読むといいよ」
「読む気がしねー、漫画しか」
「オレはこっちに来てからまだ利用したことがないから今度行ってみようかな」
 王子くん以外の男子は声だけで区別できなかった。盗み聞きしているようで申し訳ない気持ちになる。
「他の模擬戦のメンバーは?」
「蔵内と神田と荒船だな。補習らしい、犬飼は」
「せっかく二年でやるならオペも揃えたいね」
「本部に誰かいるといいけどな」
 ようやく廊下から人の気配が消えて胸を撫で下ろした。そして自分が安心できる状況になると、美帆の顔が自然と思い浮かんだ。王子くんが将棋を始めたことを話したら美帆は喜んでくれるだろうか。
 ここまで考えて自己嫌悪した。この学校にいるからこそ噂話の嫌なところを知っているのに、自分も加わろうとするなんて。

   * * *

 昼休みの後の体育は憂鬱だ。動いたらお腹が痛くなるし、疲れて次の授業は眠くなるし。だから木曜日は好きになれない。
 体育館の扉と小窓を全開にして、大型扇風機を稼働させても九月の猛烈な暑さには全く歯が立たない。棚に置いてあったペットボトルとタオルを取って私は扉の近くに座った。生温い風が流れ込んできても、身体の中の熱が発散される気配はない。タオルで顔を拭いてもすぐに汗が滲み出て頬を伝っていく感触が不快だった。
 グラウンドではA組とB組の男子たちが合同でサッカーをしていた。こんな暑い中よくやるなあと呆れるけど、他人事ではない。何故なら来週は入れ替わりで女子が外で体育をするからだ。真夏と真冬の運動は身体に悪いから図書室で自習すべきだと思う。
 隣に誰かが座ったので見たら美帆だった。トマトみたいに顔を真っ赤にして、全力で走った後の犬みたいにぜえぜえと荒い息を吐いている。
「あかん、この時期のバスケはきつい。卓球とかもっと身体動かさないスポーツがいいわ」
「全力でやるからだよ。ちょっと手抜きしたらいいのに」
「やる前はそう思っても、始まるとスイッチ入っちゃうじゃん」
「そりゃそうだけど」
 二人してペットボトルを傾ける。朝はほぼ凍っていた中身も今はほとんど解けて随分飲みやすくなっていた。
「何か面白い話ないの?」
「ないよ」
 二人でグラウンドに向いて、美帆の呟きに即答するのが恒例になっていた。
「あー、あたしもB組がよかったな。あんたと一緒だし、王子くんもいるし」
「A組もボーダー隊員いるでしょ。加賀美さん、当真くん、水上くん」
「あたしは王子くん一筋なんだよ」
 これもお決まりのやりとりだった。うちはボーダー提携校だけあって、ボーダー隊員が多い。それだけでなくボーダー隊員目当てに入学する人もいる。だから基本的にボーダーに対して好意的な人が多い。中には私みたいに家から近いという理由で受験した人もいるけど。「ボーダーが近界民を作って街を襲わせているマッチポンプだ」とか言うボーダーアンチもたまにいるのは多様性というやつだ。
 ボールを追いかける王子くんを眺める。王子くんは私が見る限り運動神経がよかった。水上くんはボールが近づいてきたら反応するけど、当真くんは何があってもほとんど動かない。せっかく背が高くて長い足もあるのに勿体ないと思う。でもこの三人の中で当真くんだけがA級なのだから、人は見た目で判断できない。
 美帆はボーダー隊員と一緒のクラスになりたいから一高を受けて、自分もボーダー隊員を目指すくらいにはボーダーのファンだった。トリオン量不足で入隊試験は不合格になり、オペレーターの適性もなかったから諦めたけど。プログラミングなんてできるわけないとエンジニアの選択肢は最初からなかったらしい。ボーダー目当てに進路を決める熱心さのわりに入隊はあっさり諦めるあたり、美帆の感覚はアンバランスなように感じるけど、この学校によくいるタイプの一人だ。
 美帆のことは好きだけど、ボーダー隊員をアイドルのように見る人は少し苦手だ。もし自分の一挙一動が注目されていると想像すると少し怖い。
 この学校で一番人気があるのは嵐山先輩。嵐山隊はラジオで番組を持っていて、たまにテレビのCMにも出ているから知名度が段違いだ。学校内ですれ違うと振り返りそうになるくらい嵐山先輩は格好いい。ポスターやテレビでしか見たことない綾辻さんも実物はもっと可愛いんだろう。来年は充くんやさとけんも入ってくるみたいだから一高の競争率が上がるかも。
 私も人気のボーダー隊員に興味がある程度には物好きだけど、それ以外のことはよく分からない。国近さんや当真くんはA級だけど、B級の嵐山先輩のような優等生オーラは出ていないし、勉強も運動も苦手な普通の高校生のように見える。残念ながらボーダー隊員のプライバシーはないに等しいので赤点を取ると噂になる。国近さんに当真くん、影浦くんは常連だった。A級は特に注目の的なのでご愁傷様だ。
 美帆は弓場隊の王子くんがお気に入りらしい。理由は顔がいいから、A級に昇格する可能性があって応援し甲斐があるから。
 前のB級上位の戦いでは嵐山隊、弓場隊、生駒隊の三つ巴だったらしい。王子くんはその弓場隊の攻撃手。
 そう言われてもいまいち想像できない。前テレビで見たボーダー特集の太刀川先輩も攻撃手だった。太刀川先輩の服を着た王子くんを想像したけど、部隊によって隊服は違うそうだ。あと攻撃手用の武器もいくつか種類があるから太刀川先輩が使っていた剣を王子くんも使っているとは限らないらしい。
 こうなると自分の想像力の限界を感じる。よく分からない服を着てよく分からない武器を持って戦う王子くん。最近完成したらしいランク戦会場は数百人収容できるとのこと。私は映画館を思い浮かべた。大きなスクリーンに映し出される弓場隊は王子くん以外黒塗りで、誰がどんな戦いをしているか分からない。見たいとも思わないけど。
 街を守ってくれていることは感謝している。でも、例え訓練でも顔見知りが斬られたり撃たれたりするところなんて目にしたくない。おそらく私はボーダー隊員に向いてないのだろう。訓練を理由にして掃除や委員会をさぼるボーダー隊員もいるから腹が立つこともあるけど、私にできないことをしていると思うと憎めない。
 間仕切りネットの向こうではオペレーターたちがバスケットボールをしている。国近さんと今さんは県外出身。転出する人はいても転入してくる人は少ないからどうしても目立つ。他には水上くんや村上くんもそうだ。転入生はボーダー関係者と思ってほぼ間違いない。
「来月のランク戦こそ弓場隊が勝つよ」
 ランク戦なんて実際には一度も見たことがないくせに美帆は言い切る。しかも自分のことのように。
「それはあんたの願望でしょ」
 よく知らないものに熱を入れる人の気が知れない。でもそれだけ応援しているのなら図書室での王子くんのやりとりを話してもいいかなあと思う。少しでも美帆に喜んでほしいという気持ちと、他人のプライベートを勝手に広めるのはだめだという気持ちがせめぎ合って、結局いつも後者が勝つ。
「ここいい? ちょっと涼ませてー」
 莉子がドアの近くに寄ってきた。こちらの返事を聞く前にへなへなとその場に座り込む。
「全然風ないけど」
「こんなに暑いのに男子たちはかわいそうだねー」
 莉子がペットボトルを豪快に呷る。口から溢れた分を手の甲で拭った。
「あれは来週のあたしたちの姿だよ」
「嫌すぎる! 自習にしよう、自習!」
 莉子は両手を床について大袈裟に溜め息をついた。はは、と美帆が笑う。莉子のハンドタオルを取って顔や首を拭いている。
 ランク戦の話はそれきりで、美帆の話題は数学の先生の悪口や放課後のアルバイトの予定に移った。
 グラウンドのほうは、試合が終わったのか男子たちはもう走っていなかった。水上くんが王子くんの脇腹を小突いているけど、何を喋っているのかまでは聞こえない。当真くんは今日もただ歩いているだけだった。
 そのうちに笛が鳴って男子たちはぞろぞろとグラウンドの中央に集まりだした。
(それにしても王子くん、どうして将棋始めたんだろう)
 誰にも話す機会がないからこそ、ずっと同じことを考えてしまう。単に趣味なのか、ボードゲームをやることはランク戦の役に立つのか。国近さんのオペレーターの能力が高いのはゲーマーなのと関係あるのかとか。
 体育館の中にも笛の音が響き渡る。やっと終わりだ。
 こうなると王子くんのことは私の頭の中から抜け落ちる。王子くんのことを思うのは美帆と顔を合わせるとき、つまり一週間に二回ある体育の時間だけだからだ。
 私たちは立ち上がって片付けに取りかかった。扉を閉めるとき、男子たちの集団が見えたけど、どこに王子くんがいるのかは分からなかったし、もう気にならなかった。