sakatori[sm]

フラワーズ

 六頴館高等学校の玄関を訪れた樫尾は備えつけられた来客用のスリッパに履き替えた。
 足を止めると、清涼感のあるすっきりとした香りが下から漂ってくる。右手に持った縦長の花束を握り直して包装紙の中を覗き込んだ。
 ベージュやボルトーのアンティークカラーのバラが三輪と白のスプレーマムが目を引くユーカリとグレビレアアイバンホーを添えて、くすんだ古紙で包んで麻紐のリボンで結べばた秋を感じさせる一束になった。
 昼夜の温度差の影響で秋咲きのバラは春のそれより花の色が鮮やからしい。香りも秋のものは優れていて、華やかさと深みを感じる独特の匂いが鼻腔をくすぐる。健康なバラは香りもしっかり乗っているということを知った。もっとも、樫尾は普段生花と縁のない生活をしているので己の感覚に自信を持てないでいるのだが。
 高校生への土産にするには少し気取りすぎただろうか。喜んでくれるだろうか。そう考えて樫尾は頭を振った。もう行動は変えられないのだから今さら迷ったところでどうしようもないのだ。
 日は傾きかけ、玄関のドアやシューズボックスの影が廊下に長く落ちていた。すっかり人影もまばらになった玄関を後にして、三階へと向かう。
 いくつかの教室を進んだ奥にある一室に辿り着いた。ドアの横には古びた檜の板に書道家が手がけたような力強い文字が踊っている。
 ――六頴館高等学校生徒会室。
 書き上がったばかりの頃は綿密な肌目だったであろうそれは年月を経てすっかりくすんだ赤茶色に変色しているが、磨き上げられて美しい光沢があった。この板一枚だけを見ても所属する生徒のまめな性質が想像できる。
 中学生である樫尾にとっては縁のない場所。思いつきで尋ねたわけではないのだから堂々としていればいいと分かっているのだが、どうしても気後れしてしまう。ここにあの人がいると分かっているゆえに。
 頭を振って一度大きく息をついた。心の揺らぎが落ち着くまで目を閉じて待つ。
 そして拳を握って顔の高さまで上げる。
「中等部二年A組樫尾由多嘉、入室します」
 ノックの後によく響く大きな声で名乗ると、中から幾人かの気配がした。
「どうぞ」
 応じたのは意外にも女性だった。ふわりと優しい声に聞き覚えがあり、樫尾の脳内にすぐにその主の姿が思い浮かんだ。
「失礼します」
 改めて断って部屋に入ると、そこには、現生徒会長である弓場、副会長の蔵内、そして役員の綾辻がテーブルを囲んでいた。それぞれの手元には印刷された冊子や筆記具が置かれていて、何らかの作業をしてきたのが分かる。
「いらっしゃい樫尾くん」
「よく来たな。新入り」
「弓場先輩、綾辻先輩。学校では初めまして、樫尾です」
 学生としてもボーダーの隊員としても先輩にあたる三人に軽く会釈をする。
「今日おめェーこっちに来るたァ聞いてが、生徒会室なんざ中学も高校も変わりねェーだろうに。自分とこのを腐るほど見てるだろうが」
 別に問い詰められているわけではなく、ただ弓場は話のきっかけを作っているだけだと分かっていたが、すぐに樫尾は返事をすることができなかった。想定範囲の問いかけだから答えなど簡単に言えるはずなのに。ただ頬がじわりと熱を持つのが分かる。
「……、それは」
「樫尾は今日、高等部と合同のJRC部で駅前で募金活動をしていたんです。そのついでに近くのうちに寄ってくれたわけです」
 助け船を出してくれたのは蔵内だった。自分の胸にあったものを全て言葉をしてくれたので樫尾が説明することはなかった。
「そうです。いずれおれもここに通うのに全く来る機会がなかったので……単なる好奇心です。忙しいところをすみません」
「……まァそういうことにしといてやるよ」
 樫尾の言葉を受けた弓場は意味ありげに鼻を鳴らし、それを見た蔵内は苦笑した。先輩二人の言外のやりとりから察することができるほど樫尾は成熟していなかった。
「でもさすが藍ちゃんが認めただけあってしっかりしてるわね」
「いや、おれは木虎さんには完敗していますし、褒められるようなことはしてません」
「藍ちゃんはね、格下は相手にしない主義だから、あなたとランク戦をしているというのはそういう意味なのよ」
「B級昇格も早かったしな。王子と蔵内が……いや、橘高もてめェーを選んだんだ、胸張りやがれ」
「ありがとうございます」
 大きくはないがよく響く声が室内に響いた。ここに来てようやく自分らしく振る舞えたと思った。
 綾辻の視線が樫尾の顔から右手へと移る。その澄んだ双眸にはちらりと好奇の色が浮かんでいる。察した樫尾は手にしていた花束を綾辻に渡す。
「お土産です。生徒会室にはたまに花を飾っていると蔵内先輩から聞いたので買ってきました」
「どうもありがとう、綺麗なお花。ええと、これはバラとユーカリと……」
「この丸いのはヨーロッパで品種改良された菊で、緑のススキみたいなのはグレビレアアイバンホーです。おれも花に詳しくないので名前しか知りませんが、季節の花を選んでもらいました」
「秋空にぴったりな色ね。そうだ、せっかく新鮮なお花を持ってきてくれたから、早く活けましょう。わたしが活けてもいい?」
「ありがとうございます。お願いしてもい」
「ま、待て綾辻! 俺がやる。……いや、俺も行く」
 ランク戦でも防衛任務でも見たことないような形相で弓場が割って入った。きょとんとした顔の綾辻と、弓場の顔を交互に見やる。ボーダーに入隊してまだ日が浅い樫尾は先輩たちの言外のやりとりから感情や意図を読むのが苦手だと感じていた。
「そんな、生徒会長自ら申し訳ないです」
「雑用に会長も役員も関係ねェんだよ。てかそっちのほうが都合がいいんだ。ほら来い」
 綾辻の返事を聞く前に棚から花瓶や鋏を取り出した弓場は、せっつくように彼女を部屋の外に連れて出た。慣れた様子で二人を見守っていた蔵内が見送る。
「飲み物は用意しておくのでよろしくお願いします。」
 ばたん、と扉が閉まるとさっきまでの喧騒が嘘のように部屋に沈黙が下りる。
「綾辻は優秀な奴なんだが、芸術のセンスは前衛的なんだ。弓場さんがいるからどうにかなるだろう」
 ふと蔵内が微笑む。茶を淹れよう、と言って席を立つと樫尾と身長差が逆転する。
 髪も瞳も色素が薄く、彫りの深い顔立ちは西洋人の血が入っているかのようだ。上背があり厚い身体は男が憧れる男そのものだ。かといって厳ついわけではなく、あたたかくやわらかい雰囲気をまとっている。
 ボーダーの彼とは違う姿だが、知的な美丈夫であることには変わりない。そんな美しい人の視界を自分が独占している。
 樫尾は無意識に握り拳を作った。掌がじっとり汗をかいている。
「コーヒーと緑茶のどちらがいい?」
「お茶でお願いします」
「じゃあここに座って待ってくれ。いや、」
 席を案内した蔵内が口を止める。樫尾と目が合った途端ににっこりと微笑んだ。優しく人を助けるときのような表情でもあり、何か裏があるような思惑も感じる。要するに感情が読めない。
「せっかく弓場さんが気を遣ってくれたんだから時間は有効に使わないとな」
 そう言って筋張った手が樫尾の頬に触れる。芝居じみて大きく樫尾の肩がびくついた。
 大きな掌が細い輪郭を撫でた後、蔵内の手が樫尾の肩についていた埃を取り除いた。
「……何か期待したか?」
 蔵内の言葉が樫尾の耳に入って脳内をぐるぐる駆け抜けていった。しかし理解するのに数秒を要した。
 唇がわななく。酸欠になった魚のように口をぱくぱくさせているうちに全身の毛穴が開いて汗が噴き出した。
「生徒会室で! そんなことを考えるわけありません!」
 自分が思ったよりずっと大きな声が出だ。隣の部屋に聞こえていないか叫んでから気づいたが気にしてももう遅い。
 ただ不意の行動に驚いただけで、蔵内に何かを期待していたわけではないのだ。
「そうだな」
 太くがっしりした大人の指が、樫尾の華奢な顎を掬い上げる。たった少しの動作ながら手慣れてそつがない。ほんの少しの動作からも蔵内の過去の経験を垣間見た気がして嫉妬心が沸き上がりそうなほどだ。
 互いの視線がかち合い、絡まる。少しの沈黙。
 成人にとっての三歳は大したことないというが、自分たちの年齢にとっては天と地のほどの差がある。経験や知識の差に抗う術を樫尾は知らない。
 蔵内の親指が樫尾の下唇に触れる。口づけを予感させる触れ方だったが、彼がここでこんなことをするわけがないという確信があった。しかし胸は高鳴る。
「別に同じ学校の生徒だしいつでも来ていいぞ。理由なんてつけなくてもな」
 下心を読まれてかっと赤くなる。部活にかこつけて蔵内に会いたいなどというのはやはり不自然だったか。
「すぐに出られるかは分からないがいつでも電話してこい。メールも。別に俺が忙しそうだからとか気を遣わなくていい」
 恋人から何もなかったら寂しいだろう、と目を細める彼は実年齢より少し幼く見えた。つられて樫尾も頬が緩む。
「あと、俺は花に疎くてな。バラの本数に意味があるなら後で調べておこう」
「それはしなくていいです! 花の種類も本数も適当なので意味はないです!」
 蔵内がスマートフォンを操作するふりをした。思わず樫尾が立ち上がると、かつかつと廊下から足音が耳に入ってきた。
 恋人として二人の時間はこれで終わりだ。樫尾は再び席に着いて、蔵内は急須を傾けて湯呑みに茶を注いだ。それを樫尾の前に置く。湯気が顔に当たったが不思議と熱くはなかった。