sakatori[sm]

なんでもない日よありがとう

 はあっと大きく吐いた息は白い。日は高いのにただ明るいだけで降り注ぐ光は冷たかった。身体の末端が痺れそうな寒さの中、外岡は足を早めた。
 ほどけかけたマフラーを締めなおして公園に入ると、目当ての人はすぐに見つかった。古びた遊具の隣にあるベンチで神田は佇んでいた。この場所で待ち合わせするときはいつもそうだった。
「よう」
 外岡の視線に気づいた神田が立ち上がり手を振った。人の流れの中にいても目立つ長身に駆け寄る。
「お待たせしました」
「いやまだ時間前だし。じゃ、ほら」
 いつものように穏やかな表情の神田が何やら差し出した。オレンジ色のリボンで結ばれた、淡いクラフト紙袋。厳つい手には不似合いな、随分と可愛らしいラッピングだ。
「バレンタインだよ。当日は防衛任務だから会えないだろ、だから先に渡しとく」
「ありがとうございます」
 胸に押し当てられたものをそのまま受け取ってしまった。背筋がひやりとした。
(神田さんってイベントを大事にするタイプだっけ。あー、見るからにそうだよな……)
 元々のバレンタインは性別に関係なく親愛の情を伝える日だったという。しかし、日本では女性が男性に愛を告白しチョコレートを渡すものへと形を変え、今では仲のいい女の子同士がチョコレートを贈り合うイベントになった。
 スーパーやコンビニの特設コーナーをただ眺め、当日はボーダーのファンから義理チョコをもらう程度の思い出しかない。要するに自分はこんなものと縁がないのだ。特に女っ気がないボーダーの男連中とつるんでいるとなおのこと。
「おまえからはないの?」
 神田が目を輝かせた。当然ながら彼の希望に沿える品物など持っていない。
 後ろ手でポーチの中を漁ると、財布や鍵、ポケットティッシュなどの感触が指先に伝わる。必要最小限のものしか入っていないのですぐ鞄の底に辿り着いた。そこでようやくとある存在を思い出した。
 それを取り出して神田の腹の前に突き出した。待ち受けるようにして彼が手を出す。
「おれの愛です」
 外岡が握りしめた拳を広げると、二つの紙くずが神田の手に落ちた。まじまじとそれを観察していた彼がぽつりと呟く。
「銀のエンゼルと、はなまるうどんの割引券……?」
 自分なりの冗談のつもりだったのだが、神田は感慨深げに見ている。
 菓子の当たり券が出ると得した気分になるが、わざわざ集めるほどではない。贔屓の飲食店の割引券をもらってもいつの間にか期限が過ぎる。どうせ使わないからといつもはすぐに捨ててしまう些細なもの。そんなものを今持っている理由なんて覚えていない。ただ単に忘れていたのだと思う。
「レアでいいんじゃないか」
「いや、もちろん冗談っスよ! すんません、今日は忘れました。ホワイトデーに期待してください」
 まるで素晴らしいものを手に入れたかのような口ぶりだったので外岡は慌てて訂正した。いくら親しい仲であっても相手にごみを押しつけるようなことはできない。
 外岡が紙くずを取り上げようとすると神田は素早く自分のポケットにしまった。
「チョコをもらうよりよっぽど思い出になるな。トノにバレンタイン忘れられて、間に合わせに渡されたのがこれだってな」
 気分を害した様子はなく、それどころか何を気に入ったのかうんうんと頷いている。
「ちなみに、おれが渡したのはお茶っ葉だから」
 外岡より一回り大きな手がラッピングを指す。リボンをほどくといかにも高級そうな茶葉のパッケージが見えた。毎日飲んでも一人暮らしだと使いきるのに時間がかかりそうな量だった。
「チョコはありがちかなと思って悩んだんだよ。それにチョコはすぐなくなるけどお茶なら何か月か持つだろ? お茶飲みながら九州の俺のこと考えてくれたらいいなって。でもおまえからのプレゼントは俺の予想の上をいったな。さすがだ」
「もう、神田さんに本気でこんなもん渡すわけないでしょ」
 外岡が肘で神田の脇腹を小突いたが彼は全くこたえていない。
「チョコボールが好きなのか? これ、集めてないのか?」
「いや、なんとなく買ったのがたまたま当たっただけ。別に集めてないんで捨てるつもりでした」
「当たったらまたくれよ。俺が代わりに集めてやる」
「いいスけど、十六年で一回しか当たってないんスよ。これから当たるかなぁ」
「八十歳で五枚集まる計算じゃないか」
 途方もない年齢に気が遠のいた。その頃自分は何をやっているのか、そもそも生きているのか全く想像できない。
 外岡の混乱をよそに、神田はずっと平常心を保っていた。
「狙撃手のおまえも好きだけど、普段のおまえのことももっと知りたいよ。三門にいるうちにもっとデートしてくれ」
 デート、なんて改めて言われると気恥ずかしい。神田とは恋人としてより戦友として過ごしたほうが長いがゆえに。
 それに神田がボーダーに所属していた頃は恋人らしいことをあまりしなかった。逢瀬は任務を終えた神田が外岡の部屋に寄ることが多くて、都合がついたらたまに一緒に出かけるくらいだった。同じ部隊とはいえ通う高校も学年も違い、さらに相手は難関大学の受験生だから予定が合わないのだ。わざわざ時間を割いてもらうのは申し訳ないとも思っていた。
「せっかくクーポンがあるし今日はうどんが食いたいな」
「おれまだ腹減ってません」
「じゃあちょっと歩こう」
 嫌味なく、気取りもせず、ごく自然に神田は外岡の手を取った。大きな掌が外岡のそれを包みこむ。神田の手は温かかった。自分のほうが冷えきっているだけかもしれないが、外岡に判断することはできなかった。
 神田に手を引かれて歩く。絡め取られた指の力強さや皮膚に沁みる体温から情事を思い出して、顔だけ火照った。
 馴染みのある街並みが鮮やかに見えた。誕生日でも記念日でもなんでもない日なのに何故だろう。
 いや、なんでもない日だからこそ、だった。除隊した神田はともかく、外岡にとっては束の間の憩いだから。
 もっと一緒にいたい、という気持ちが胸を衝く。言ったところでどうにもならないことを口にするつもりはない。
 平穏な日に感謝しつつ、外岡は神田の手を強く握りかえした。