sakatori[sm]

遅刻

 布団にこもったまま手だけを外に出すとひんやりした空気が触れた。それだけで全身に鳥肌が立った。ここから出たくないというごく単純な感情に支配される。
 ヘッドボードをまさぐるとスマートフォンがあったのでそれを握りしめて腕を引っ込める。
 真っ暗な布団の中でスマートフォンを持ち直す。自分の吐息で画面が曇った。
 電源ボタンを押すと、寝起きではっきりしない視界に人工的な光が飛び込んできた。購入したときのままの無愛想な壁紙に「午前八時二十分」という文字が表示されていた。ちょうどSHRが始まる時刻だ。
 一時間目数学、二時間目体育、三時間目英語。時間割表が頭の中に浮かび、前回の授業の映像が脳内で再生された。
「っ!」
 布団を蹴り飛ばすようにして起き上がった。裸のままの上半身に冷気が染みる。しかしそんなものより焦燥感がずっと上回った。
 冷たい床に急いで足を下ろすと、痺れるような痛みが走った。
 足の裏ではなく腰や股関節のあたりから。予想外の場所から届いた感覚だった。
「ったぁ、」
 思わず背中を丸めて呻いたが、喉の奥が詰まって声が出ない。
 急に動いたせいで酸素も血液も足りない頭がぐらつく。
 自分のことでかかりきりになっていた水上は、生駒の存在に気づくことができなかった。
「おはよう」
 上から降ってきた声に応えるために水上が顔を上げた。スウェット姿の生駒は前髪を下ろしたままだが少なくとも寝起きのようには見えなかった。
「おはようございます。はよ起きとんやったら俺にも声かけてくださいよ。今から走ってももう一時間目は間に合わん……」
 いつもどおり喋ったつもりの声は随分と掠れていた。
「あれ、今週模試受けるんか?」
 真顔のまま小首を傾ける生駒の発言を水上は飲み込むことができなかった。彼の少ない言葉から状況を整理しようと試みるが、気が急いて、それとは裏腹に身体は倦怠感に包まれていてどうにも上手くいかない。
「……、…………」
「今日土曜やん。学校は休みやで」
 記憶を手繰り寄せようと頭を掻いていた水上に向かって生駒がぽつりと漏らす。
「よかった……」
 遅刻も欠課もしていないことに安堵した。そして、何もしていないのにどっと疲れた。
 水上はベッドに倒れ込んだ。自分の体温が残った布団の存在が何故か愛おしく感じる。
「おまえも寝惚けることあるんやな」
「しょっちゅうっすよ」
 目だけを動かすと、生駒の部屋だった。ここに泊まるのは金曜日か土曜日くらいだから、そのことからも今日が平日ではないということは分かる。
 そもそもスマートフォンのアラームで毎朝起床しているのだからそれが鳴らなかったということは休日ということだ。
 思考を巡らせる水上の様子を生駒はじっと見つめていた。見守っているとも観察しているとも受け取れるような微妙な距離感。表情だけで彼の感情を読み取るのは難しい。
「そんなに俺の間抜けな格好がおもろいですか?」
「いや、おもろいっていうか。今まで見たことない一面見るんは嬉しいやろ。ランク戦や勉強以外でそんな考え事するん珍しい思うてな」
 生駒が自分の髪の毛に手を入れた。水上が考え事をするときの癖だ。
「そんな大したもんちゃいますけど」
「今フレンチトーストを焼こうとしたとこや、そんで起こしに来た。顔洗ってテーブルで待っとれ」
 はよ服着てくれ、目の毒や。そう言って背中を向けた生駒の言葉を水上はすぐに理解することができなかった。
 冷たくなった上半身をさする。腕や胸元に眺めると鬱血の痕が散っていた。これは一体。
 目を閉じると昨夜の出来事が脳裏に浮かんだ。明日は休みだから少しくらい羽目を外してもいいだろう、なんてことを言った気がする。それよりもっと過激な言葉も。
 喉や腰の違和感の正体に気づいた水上は自分の目を掌で覆った。意識が鮮明になると昨晩の出来事もつい先ほどのことのように思い出すことができた。記憶力がいいというのも時と場合による。
「……あぁ」
 羞恥や自分に対する失望など雑多な感情を込めた吐息は誰に聞かれることもなく消えた。