ワールドトリガー

傘(WT/いこみず)


ワールドトリガー』生駒達人×水上敏志。いこみずワンドロワンライ第43回に投稿した作品。水も滴るいい男。
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 寮のエントランスにいる先客を見た水上は絶句した。着衣のまま入浴したかのようにずぶ濡れだったからだ。そんな姿でコンビニのレジ袋を持っているという日常性がまた異常さを強調していた。
 かける言葉を選んでいると、視線に気づいたのか彼がこちらを振り返った。
 整髪剤で固めている前髪は崩れ落ち、何筋か額に張りついていた。彼は鬱陶しげにそれをかき上げているが、涼しげな顔をしていた。
「おう水上。おかえり」
「……ただいま。それよりイコさん、その格好はどなんしたんですか?」
「コンビニに行っとってな。出かけるときは雨がやんどったからちょっとぐらいいけると思うてんけど、結果はこの様や」
「今日の天気予報は雨だったでしょ。てか昨日からずっと降っとったのに」
「傘差し運転はあかんから仕方ないやん。雨に濡れてもすぐ風呂に入ったら済むことや」
 なるほど、潔い考え方だ。寮からコンビニまでは少し距離があるから徒歩でなく自転車を使いたいと考えるのは当然のことだ。濡れたならすぐに風呂に入り洗濯すればいい。でも、雨に打たれると分かって手ぶらで出かけるだろうか。人目を気にして実行しない者の方が多いと思う。
 もっとも、傘を差したところで身体が濡れるのは完全に防げないのだが。水上も膝から下は地面に跳ね返った水で濡れているし、靴の中もじっとりしている。それだけでなく腕や胴体まで少し湿っていた。
 傘は進化しないと聞いたことがあるが、確かに手間がかかるわりに費用対効果はよくない。特に今のような大雨だと用をなさない。
 水上は自分の傘を閉じて水滴を振り払った。石突きから滴り落ちた水はコンクリートを濡らし、すぐに水溜まりになった。
「はよ風呂に入りたいな」
 首元にくっついたTシャツをつまんだ生駒が呟く。整髪剤混じりの水が目に染みるのか盛んに瞬きしている。
 彼の頭の天辺から足の爪先まで眺めた。濡れて艶やかな素肌が目を引く。色のついたシャツなので肌は透けていないが、ぴったり身体に張りついている。骨の太さまで想像できるような首、ぶ厚い胸板、どっしりとした丸太のような腰。それら上半身の輪郭が露わになっている。
 色気を感じた、と言えばいいのだろうか。
 背筋を衝動が走り抜け、心臓がどっと大きく脈打った。無意識に息を呑んだ。ざあざあとうるさい雨の中でも、自分の体内の音はやけにはっきり聞こえた。
「……おまえ今、俺のことエッチな目で見たやろ」
「そうですけど、でかい声で言わんといてください」
 いつもの無表情、いつもの落ち着いた声で言われると冗談のように聞こえない。図星を突かれたからなおさらだ。
 彼の裸など見慣れているのに、初心な反応をしてしまった自分を恥じた。
「用事なかったらうちに来んか?」
 ずっと同じ表情を保ちながら問いかけてきた生駒の声は少し低かった。その声色に含まれる意図を察して、水上はまた自分の体温が上がるのを感じた。
 雨はいっそう強くなり、風に揺られた木の枝がざわめいた。まるで水上を囃し立てているかのようだった。
 遠くでかっと雷が鳴った。
「はい」
 雑音に包まれた返事が彼に届いたかは分からない。
#ワールドトリガー #いこみず

フラワーズ(WT/蔵樫)


ワールドトリガー』蔵内和紀×樫尾由多嘉。2022年5月3日発行の樫尾受アンソロジーに参加させていただいた作品の再録です。生徒会長CPを書くことができてとても楽しかったです。
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 六頴館高等学校の玄関を訪れた樫尾は備えつけられた来客用のスリッパに履き替えた。
 足を止めると、清涼感のあるすっきりとした香りが下から漂ってくる。右手に持った縦長の花束を握り直して包装紙の中を覗き込んだ。
 ベージュやボルトーのアンティークカラーのバラが三輪と白のスプレーマムが目を引くユーカリとグレビレアアイバンホーを添えて、くすんだ古紙で包んで麻紐のリボンで結べばた秋を感じさせる一束になった。
 昼夜の温度差の影響で秋咲きのバラは春のそれより花の色が鮮やからしい。香りも秋のものは優れていて、華やかさと深みを感じる独特の匂いが鼻腔をくすぐる。健康なバラは香りもしっかり乗っているということを知った。もっとも、樫尾は普段生花と縁のない生活をしているので己の感覚に自信を持てないでいるのだが。
 高校生への土産にするには少し気取りすぎただろうか。喜んでくれるだろうか。そう考えて樫尾は頭を振った。もう行動は変えられないのだから今さら迷ったところでどうしようもないのだ。
 日は傾きかけ、玄関のドアやシューズボックスの影が廊下に長く落ちていた。すっかり人影もまばらになった玄関を後にして、三階へと向かう。
 いくつかの教室を進んだ奥にある一室に辿り着いた。ドアの横には古びた檜の板に書道家が手がけたような力強い文字が踊っている。
 ――六頴館高等学校生徒会室。
 書き上がったばかりの頃は綿密な肌目だったであろうそれは年月を経てすっかりくすんだ赤茶色に変色しているが、磨き上げられて美しい光沢があった。この板一枚だけを見ても所属する生徒のまめな性質が想像できる。
 中学生である樫尾にとっては縁のない場所。思いつきで尋ねたわけではないのだから堂々としていればいいと分かっているのだが、どうしても気後れしてしまう。ここにあの人がいると分かっているゆえに。
 頭を振って一度大きく息をついた。心の揺らぎが落ち着くまで目を閉じて待つ。
 そして拳を握って顔の高さまで上げる。
「中等部二年A組樫尾由多嘉、入室します」
 ノックの後によく響く大きな声で名乗ると、中から幾人かの気配がした。
「どうぞ」
 応じたのは意外にも女性だった。ふわりと優しい声に聞き覚えがあり、樫尾の脳内にすぐにその主の姿が思い浮かんだ。
「失礼します」
 改めて断って部屋に入ると、そこには、現生徒会長である弓場、副会長の蔵内、そして役員の綾辻がテーブルを囲んでいた。それぞれの手元には印刷された冊子や筆記具が置かれていて、何らかの作業をしてきたのが分かる。
「いらっしゃい樫尾くん」
「よく来たな。新入り」
「弓場先輩、綾辻先輩。学校では初めまして、樫尾です」
 学生としてもボーダーの隊員としても先輩にあたる三人に軽く会釈をする。
「今日おめェーこっちに来るたァ聞いてが、生徒会室なんざ中学も高校も変わりねェーだろうに。自分とこのを腐るほど見てるだろうが」
 別に問い詰められているわけではなく、ただ弓場は話のきっかけを作っているだけだと分かっていたが、すぐに樫尾は返事をすることができなかった。想定範囲の問いかけだから答えなど簡単に言えるはずなのに。ただ頬がじわりと熱を持つのが分かる。
「……、それは」
「樫尾は今日、高等部と合同のJRC部で駅前で募金活動をしていたんです。そのついでに近くのうちに寄ってくれたわけです」
 助け船を出してくれたのは蔵内だった。自分の胸にあったものを全て言葉をしてくれたので樫尾が説明することはなかった。
「そうです。いずれおれもここに通うのに全く来る機会がなかったので……単なる好奇心です。忙しいところをすみません」
「……まァそういうことにしといてやるよ」
 樫尾の言葉を受けた弓場は意味ありげに鼻を鳴らし、それを見た蔵内は苦笑した。先輩二人の言外のやりとりから察することができるほど樫尾は成熟していなかった。
「でもさすが藍ちゃんが認めただけあってしっかりしてるわね」
「いや、おれは木虎さんには完敗していますし、褒められるようなことはしてません」
「藍ちゃんはね、格下は相手にしない主義だから、あなたとランク戦をしているというのはそういう意味なのよ」
「B級昇格も早かったしな。王子と蔵内が……いや、橘高もてめェーを選んだんだ、胸張りやがれ」
「ありがとうございます」
 大きくはないがよく響く声が室内に響いた。ここに来てようやく自分らしく振る舞えたと思った。
 綾辻の視線が樫尾の顔から右手へと移る。その澄んだ双眸にはちらりと好奇の色が浮かんでいる。察した樫尾は手にしていた花束を綾辻に渡す。
「お土産です。生徒会室にはたまに花を飾っていると蔵内先輩から聞いたので買ってきました」
「どうもありがとう、綺麗なお花。ええと、これはバラとユーカリと……」
「この丸いのはヨーロッパで品種改良された菊で、緑のススキみたいなのはグレビレアアイバンホーです。おれも花に詳しくないので名前しか知りませんが、季節の花を選んでもらいました」
「秋空にぴったりな色ね。そうだ、せっかく新鮮なお花を持ってきてくれたから、早く活けましょう。わたしが活けてもいい?」
「ありがとうございます。お願いしてもい」
「ま、待て綾辻! 俺がやる。……いや、俺も行く」
 ランク戦でも防衛任務でも見たことないような形相で弓場が割って入った。きょとんとした顔の綾辻と、弓場の顔を交互に見やる。ボーダーに入隊してまだ日が浅い樫尾は先輩たちの言外のやりとりから感情や意図を読むのが苦手だと感じていた。
「そんな、生徒会長自ら申し訳ないです」
「雑用に会長も役員も関係ねェんだよ。てかそっちのほうが都合がいいんだ。ほら来い」
 綾辻の返事を聞く前に棚から花瓶や鋏を取り出した弓場は、せっつくように彼女を部屋の外に連れて出た。慣れた様子で二人を見守っていた蔵内が見送る。
「飲み物は用意しておくのでよろしくお願いします。」
 ばたん、と扉が閉まるとさっきまでの喧騒が嘘のように部屋に沈黙が下りる。
「綾辻は優秀な奴なんだが、芸術のセンスは前衛的なんだ。弓場さんがいるからどうにかなるだろう」
 ふと蔵内が微笑む。茶を淹れよう、と言って席を立つと樫尾と身長差が逆転する。
 髪も瞳も色素が薄く、彫りの深い顔立ちは西洋人の血が入っているかのようだ。上背があり厚い身体は男が憧れる男そのものだ。かといって厳ついわけではなく、あたたかくやわらかい雰囲気をまとっている。
 ボーダーの彼とは違う姿だが、知的な美丈夫であることには変わりない。そんな美しい人の視界を自分が独占している。
 樫尾は無意識に握り拳を作った。掌がじっとり汗をかいている。
「コーヒーと緑茶のどちらがいい?」
「お茶でお願いします」
「じゃあここに座って待ってくれ。いや、」
 席を案内した蔵内が口を止める。樫尾と目が合った途端ににっこりと微笑んだ。優しく人を助けるときのような表情でもあり、何か裏があるような思惑も感じる。要するに感情が読めない。
「せっかく弓場さんが気を遣ってくれたんだから時間は有効に使わないとな」
 そう言って筋張った手が樫尾の頬に触れる。芝居じみて大きく樫尾の肩がびくついた。
 大きな掌が細い輪郭を撫でた後、蔵内の手が樫尾の肩についていた埃を取り除いた。
「……何か期待したか?」
 蔵内の言葉が樫尾の耳に入って脳内をぐるぐる駆け抜けていった。しかし理解するのに数秒を要した。
 唇がわななく。酸欠になった魚のように口をぱくぱくさせているうちに全身の毛穴が開いて汗が噴き出した。
「生徒会室で! そんなことを考えるわけありません!」
 自分が思ったよりずっと大きな声が出だ。隣の部屋に聞こえていないか叫んでから気づいたが気にしてももう遅い。
 ただ不意の行動に驚いただけで、蔵内に何かを期待していたわけではないのだ。
「そうだな」
 太くがっしりした大人の指が、樫尾の華奢な顎を掬い上げる。たった少しの動作ながら手慣れてそつがない。ほんの少しの動作からも蔵内の過去の経験を垣間見た気がして嫉妬心が沸き上がりそうなほどだ。
 互いの視線がかち合い、絡まる。少しの沈黙。
 成人にとっての三歳は大したことないというが、自分たちの年齢にとっては天と地のほどの差がある。経験や知識の差に抗う術を樫尾は知らない。
 蔵内の親指が樫尾の下唇に触れる。口づけを予感させる触れ方だったが、彼がここでこんなことをするわけがないという確信があった。しかし胸は高鳴る。
「別に同じ学校の生徒だしいつでも来ていいぞ。理由なんてつけなくてもな」
 下心を読まれてかっと赤くなる。部活にかこつけて蔵内に会いたいなどというのはやはり不自然だったか。
「すぐに出られるかは分からないがいつでも電話してこい。メールも。別に俺が忙しそうだからとか気を遣わなくていい」
 恋人から何もなかったら寂しいだろう、と目を細める彼は実年齢より少し幼く見えた。つられて樫尾も頬が緩む。
「あと、俺は花に疎くてな。バラの本数に意味があるなら後で調べておこう」
「それはしなくていいです! 花の種類も本数も適当なので意味はないです!」
 蔵内がスマートフォンを操作するふりをした。思わず樫尾が立ち上がると、かつかつと廊下から足音が耳に入ってきた。
 恋人として二人の時間はこれで終わりだ。樫尾は再び席に着いて、蔵内は急須を傾けて湯呑みに茶を注いだ。それを樫尾の前に置く。湯気が顔に当たったが不思議と熱くはなかった。
#ワールドトリガー #蔵樫

欲しいものは(WT/神外)


ワールドトリガー』神田忠臣×外岡一斗。GWに帰郷した神田とそれを迎える外岡の話。といそさん(大丈夫海浜公園)のスペースに置かせていただいた無料配布の再録です。
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 混雑する時間帯を過ぎていたおかげで二人客でも四人掛けのテーブルに通された。
 嵩張る荷物を隣の椅子に置いて、一つ溜め息を漏らした。馴染みの定食屋の光景や匂いに感じ入っていると、対面する外岡が口を開いた。
「そういや神田さん、何か欲しいもんはないっスか? あ、メシの話じゃなくてプレゼントです」
 唐突に問いかけられた神田は首を傾けた。彼は何事もなかったかのようにメニュー表を手に取り目の前に広げた。うどんかそばがいい、と呑気に指差している。
 神田は外岡の隣の席に置いてある紙袋に目をやった。新幹線に乗る前に駅前で購入したいくつかの銘菓。もっとも物産展で売られているようなものだから、九州の土産といっても大して珍しくない。今は何でも通販で手に入る時代だからなおのこと。
「急に何だ? 別に土産の礼はいらないぞ」
「いや、神田さんの誕生日に会えないから、欲しいもんがあるなら今日買って渡そうと思って。先払いってやつです」
「もっとムードのある言い方してくれよ」
「後で渡すより先がいいっしょ。だって誕生日のことちゃんと覚えてるってことだし」
「おい、忘れられたらショックで立ち直れないんだけど」
 テーブルの下で外岡の爪先をつつくと、彼は笑いながら足を引っ込めた。そのにやついた顔をつまんでやりたいところだが生憎距離がある。
 外岡の質問が脳内をもう一度駆け巡ったが、答えは変わらない。
「ないよ」
「何でも言ってくださいよ。今のおれは多分神田さんより稼いでますよ」
「でも貯金は少しあるからな」
「でしょうね。おれが買えるようなもんならとっくに神田さんは自分で用意してるって思いました。言ってくれるなら悩まずにすむのになぁ」
 顔の前で手を組む外岡が肩を落とした。相手の希望を事前に聞くのは現実的で彼らしい。神田は日常のやりとりから考えたり、さり気なくリサーチするタイプなので真逆だ。
「物より時間が欲しいけどな。おまえと会える、いや話せる時間」
「そんなんいくらでもあるじゃないっスか」
「最後に通話したのはいつだっけ?」
「……一週間ぐらい前?」
「十日だ。俺としては二、三日に一度は話したいって思ってるけど生活リズムが合わないのは仕方ない。おまえも俺に気を遣ってくれてるのは分かるしな」
 通話の頻度こそ低いがメッセージのやりとりはそれなりに行っている。ぽつりぽつりと届く近況報告は夕方が多い。夜中に連絡してくることはないし返事を急かすこともない。随分と控えめで物分かりがいいことだ。それがかえってもどかしくもあるのだが。
「おれのプレゼントのセンスがなくても気持ちは信じてくださいよ」
 自信がなさそうに外岡が頭をかく。
「疑うわけないだろ。おまえが考えてくれたのなら何でも嬉しいよ」
 そうだ、と神田が手を打つ。
「俺の誕生日、十二時ぴったりに電話かけてくれよ。最初におまえが祝ってくれ」
「バイトとかサークルとかで忙しいかもしれないじゃないスか」
「時間空けとくから。何なら待機しとくし」
 途端に外岡が小さく吹き出した。何が笑いのつぼにはまったのか身体を震わせている。
「っはは、スマホをじっと見つめてる神田さん想像して、……っ」
 生白い肌に赤みが差す。ここまで彼が感情を露わにするのはしばらく見たことがなかった。
「それに一匹狼の貴重な時間なんて贅沢なプレゼントじゃないか」
「おれからしたら神田さんの時間こそ貴重だと思うスけど。じゃあ電話します。プレゼントは……まぁ都合がいいときに」
 いつものように薄く軽く言葉を紡ぐ外岡の、神田を見つめるまなざしはあたたかい。彼からは返せないほどの多くのものをもらっているのに今さら何を欲するだろうか。
 神田が外岡と目を合わせて微笑むと、彼の爪先が神田の足にそっと触れた。
#ワールドトリガー #神外

バレンタイン(WT/いこみず)


ワールドトリガー』生駒達人×水上敏志。いこみずワンドロワンライ第25回に投稿した作品。水上はイベントに興味がないイメージがあります。
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「はい、お土産です」
「待っとったで。ってこれ、……いつもの惣菜やん」
 ご機嫌な様子で玄関ドアを開いた生駒だったが、無表情のまま語尾を落とした。
 まだ温かいレジ袋を差し出すと、生駒は渋々受け取った。揚げ物の匂いが狭い玄関に広がる。
「ここの唐揚げ、好きや言うてましたやん。揚げ春巻きと肉団子もありますよ」
 生駒を通り抜けた水上は慣れた足取りで上がり框(かまち)を跨いだ。廊下キッチンで手を洗っていると、はあ、と彼らしからぬ溜め息が聞こえた。
「……俺に何を期待しとんですか」
「今日は二月十四日やで、期待するやろ!」
「チョコはマリオからもろたでしょ」
「俺らみんな同じ義理のやつな。で、おまえからはないんか?」
 生駒と顔を合わせるのは今日で二回目だ。水上は防衛任務後に帰宅して改めて生駒の家を訪ねた。最初に顔を合わせたとき何も渡さなかったのだから察するだろうと思っていたのだが、二人きりになったらもらえると考えていたらしい。何とも前向きな性格だ。
「チョコはそんなにいっぱい食えんと思って普通の食いもんにしたんすよ。これが俺なりのバレンタインです」
「出た! 思いつきの嘘! おまえはこの店のよう惣菜買ってきてくれるだろ。バレンタイン関係ないやんか」
 玄関ドアの鍵をかける生駒がじっと水上を見つめている。心なしか恨めしげな表情をしているように見えたが、照明が暗いせいということにしておく。
 親愛の気持ちを伝える日であるバレンタイン。日本では女性が男性に愛を告白しチョコレートを渡すものへと形を変え、今では仲のいい女の子同士がチョコレートを贈り合うイベントになった。甘い物がそれほど得意ではない水上としては、スーパーやコンビニの特設コーナーを見るだけで胸焼けしそうになる。友チョコ、ファミチョコ、自分チョコ、逆チョコと菓子メーカーのキャンペーン戦略には感心するが、イベントそのものには興味がない。
「そういうイコさんこそ俺にないんすか?」
「あるに決まっとるやろ。部屋に飾ってある」
「ならくださいよ。俺はイコさんに今日の夕飯を渡す。イコさんは俺にチョコを渡す。これで交換成立やないですか」
「チョコがええんや。いや、チョコでなくてもいいからおまえが選んだプレゼントがええ」
「あんた、そんな面倒くさい人でしたっけ?」
 予想外の食い下がりっぷりに水上も戸惑った。
「たまには恋人らしいことしたいやろ。特におまえは何か理由がないと動かんから」
 ぽつりと呟いた、と表現するにはいささか力強い言葉だった。表情も声色もいつもと同じ、しかし。
 水上は生駒の背中を抱くと、黒髪に鼻をうずめた。荷物で片手が塞がっている生駒は空いた方の腕で水上の腰を撫でた。
「なんや急に」
「いや、可愛いな思うて」
「そんな可愛い彼氏にチョコ渡したいやろ?」
「いや、それは別に……。まぁ、でもホワイトデーを待っとってください」
「今日もらうんがええんやけどな」
 ずっと真顔でいる彼が愛らしいと感じたのは多分、惚れた欲目というやつだ。面倒だと思っていたイベントも悪くないと思ったのも恋心のせいだろう。
 生駒の固い髪の毛の感触を楽しみながら、水上の心にじわりと熱がともるのを感じた。
#ワールドトリガー #いこみず

なんでもない日よありがとう(WT/神外)


ワールドトリガー』神田忠臣×外岡一斗。ハッピーバレンタイン。『吾が手に引き金を 31』で戸磯重工さんのスペースに置いていただいた無料配布の再録です。
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 はあっと大きく吐いた息は白い。日は高いのにただ明るいだけで降り注ぐ光は冷たかった。身体の末端が痺れそうな寒さの中、外岡は足を早めた。
 ほどけかけたマフラーを締めなおして公園に入ると、目当ての人はすぐに見つかった。古びた遊具の隣にあるベンチで神田は佇んでいた。この場所で待ち合わせするときはいつもそうだった。
「よう」
 外岡の視線に気づいた神田が立ち上がり手を振った。人の流れの中にいても目立つ長身に駆け寄る。
「お待たせしました」
「いやまだ時間前だし。じゃ、ほら」
 いつものように穏やかな表情の神田が何やら差し出した。オレンジ色のリボンで結ばれた、淡いクラフト紙袋。厳つい手には不似合いな、随分と可愛らしいラッピングだ。
「バレンタインだよ。当日は防衛任務だから会えないだろ、だから先に渡しとく」
「ありがとうございます」
 胸に押し当てられたものをそのまま受け取ってしまった。背筋がひやりとした。
(神田さんってイベントを大事にするタイプだっけ。あー、見るからにそうだよな……)
 元々のバレンタインは性別に関係なく親愛の情を伝える日だったという。しかし、日本では女性が男性に愛を告白しチョコレートを渡すものへと形を変え、今では仲のいい女の子同士がチョコレートを贈り合うイベントになった。
 スーパーやコンビニの特設コーナーをただ眺め、当日はボーダーのファンから義理チョコをもらう程度の思い出しかない。要するに自分はこんなものと縁がないのだ。特に女っ気がないボーダーの男連中とつるんでいるとなおのこと。
「おまえからはないの?」
 神田が目を輝かせた。当然ながら彼の希望に沿える品物など持っていない。
 後ろ手でポーチの中を漁ると、財布や鍵、ポケットティッシュなどの感触が指先に伝わる。必要最小限のものしか入っていないのですぐ鞄の底に辿り着いた。そこでようやくとある存在を思い出した。
 それを取り出して神田の腹の前に突き出した。待ち受けるようにして彼が手を出す。
「おれの愛です」
 外岡が握りしめた拳を広げると、二つの紙くずが神田の手に落ちた。まじまじとそれを観察していた彼がぽつりと呟く。
「銀のエンゼルと、はなまるうどんの割引券……?」
 自分なりの冗談のつもりだったのだが、神田は感慨深げに見ている。
 菓子の当たり券が出ると得した気分になるが、わざわざ集めるほどではない。贔屓の飲食店の割引券をもらってもいつの間にか期限が過ぎる。どうせ使わないからといつもはすぐに捨ててしまう些細なもの。そんなものを今持っている理由なんて覚えていない。ただ単に忘れていたのだと思う。
「レアでいいんじゃないか」
「いや、もちろん冗談っスよ! すんません、今日は忘れました。ホワイトデーに期待してください」
 まるで素晴らしいものを手に入れたかのような口ぶりだったので外岡は慌てて訂正した。いくら親しい仲であっても相手にごみを押しつけるようなことはできない。
 外岡が紙くずを取り上げようとすると神田は素早く自分のポケットにしまった。
「チョコをもらうよりよっぽど思い出になるな。トノにバレンタイン忘れられて、間に合わせに渡されたのがこれだってな」
 気分を害した様子はなく、それどころか何を気に入ったのかうんうんと頷いている。
「ちなみに、おれが渡したのはお茶っ葉だから」
 外岡より一回り大きな手がラッピングを指す。リボンをほどくといかにも高級そうな茶葉のパッケージが見えた。毎日飲んでも一人暮らしだと使いきるのに時間がかかりそうな量だった。
「チョコはありがちかなと思って悩んだんだよ。それにチョコはすぐなくなるけどお茶なら何か月か持つだろ? お茶飲みながら九州の俺のこと考えてくれたらいいなって。でもおまえからのプレゼントは俺の予想の上をいったな。さすがだ」
「もう、神田さんに本気でこんなもん渡すわけないでしょ」
 外岡が肘で神田の脇腹を小突いたが彼は全くこたえていない。
「チョコボールが好きなのか? これ、集めてないのか?」
「いや、なんとなく買ったのがたまたま当たっただけ。別に集めてないんで捨てるつもりでした」
「当たったらまたくれよ。俺が代わりに集めてやる」
「いいスけど、十六年で一回しか当たってないんスよ。これから当たるかなぁ」
「八十歳で五枚集まる計算じゃないか」
 途方もない年齢に気が遠のいた。その頃自分は何をやっているのか、そもそも生きているのか全く想像できない。
 外岡の混乱をよそに、神田はずっと平常心を保っていた。
「狙撃手のおまえも好きだけど、普段のおまえのことももっと知りたいよ。三門にいるうちにもっとデートしてくれ」
 デート、なんて改めて言われると気恥ずかしい。神田とは恋人としてより戦友として過ごしたほうが長いがゆえに。
 それに神田がボーダーに所属していた頃は恋人らしいことをあまりしなかった。逢瀬は任務を終えた神田が外岡の部屋に寄ることが多くて、都合がついたらたまに一緒に出かけるくらいだった。同じ部隊とはいえ通う高校も学年も違い、さらに相手は難関大学の受験生だから予定が合わないのだ。わざわざ時間を割いてもらうのは申し訳ないとも思っていた。
「せっかくクーポンがあるし今日はうどんが食いたいな」
「おれまだ腹減ってません」
「じゃあちょっと歩こう」
 嫌味なく、気取りもせず、ごく自然に神田は外岡の手を取った。大きな掌が外岡のそれを包みこむ。神田の手は温かかった。自分のほうが冷えきっているだけかもしれないが、外岡に判断することはできなかった。
 神田に手を引かれて歩く。絡め取られた指の力強さや皮膚に沁みる体温から情事を思い出して、顔だけ火照った。
 馴染みのある街並みが鮮やかに見えた。誕生日でも記念日でもなんでもない日なのに何故だろう。
 いや、なんでもない日だからこそ、だった。除隊した神田はともかく、外岡にとっては束の間の憩いだから。
 もっと一緒にいたい、という気持ちが胸を衝く。言ったところでどうにもならないことを口にするつもりはない。
#ワールドトリガー #神外

遅刻(WT/いこみず)


ワールドトリガー』生駒達人×水上敏志。いこみずワンドロワンライ第22回に投稿した作品。二人とも時間を守りそうなイメージがありますが、オフならこういうこともあると思います。
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 布団にこもったまま手だけを外に出すとひんやりした空気が触れた。それだけで全身に鳥肌が立った。ここから出たくないというごく単純な感情に支配される。
 ヘッドボードをまさぐるとスマートフォンがあったのでそれを握りしめて腕を引っ込める。
 真っ暗な布団の中でスマートフォンを持ち直す。自分の吐息で画面が曇った。
 電源ボタンを押すと、寝起きではっきりしない視界に人工的な光が飛び込んできた。購入したときのままの無愛想な壁紙に「午前八時二十分」という文字が表示されていた。ちょうどSHRが始まる時刻だ。
 一時間目数学、二時間目体育、三時間目英語。時間割表が頭の中に浮かび、前回の授業の映像が脳内で再生された。
「っ!」
 布団を蹴り飛ばすようにして起き上がった。裸のままの上半身に冷気が染みる。しかしそんなものより焦燥感がずっと上回った。
 冷たい床に急いで足を下ろすと、痺れるような痛みが走った。
 足の裏ではなく腰や股関節のあたりから。予想外の場所から届いた感覚だった。
「ったぁ、」
 思わず背中を丸めて呻いたが、喉の奥が詰まって声が出ない。
 急に動いたせいで酸素も血液も足りない頭がぐらつく。
 自分のことでかかりきりになっていた水上は、生駒の存在に気づくことができなかった。
「おはよう」
 上から降ってきた声に応えるために水上が顔を上げた。スウェット姿の生駒は前髪を下ろしたままだが少なくとも寝起きのようには見えなかった。
「おはようございます。はよ起きとんやったら俺にも声かけてくださいよ。今から走ってももう一時間目は間に合わん……」
 いつもどおり喋ったつもりの声は随分と掠れていた。
「あれ、今週模試受けるんか?」
 真顔のまま小首を傾ける生駒の発言を水上は飲み込むことができなかった。彼の少ない言葉から状況を整理しようと試みるが、気が急いて、それとは裏腹に身体は倦怠感に包まれていてどうにも上手くいかない。
「……、…………」
「今日土曜やん。学校は休みやで」
 記憶を手繰り寄せようと頭を掻いていた水上に向かって生駒がぽつりと漏らす。
「よかった……」
 遅刻も欠課もしていないことに安堵した。そして、何もしていないのにどっと疲れた。
 水上はベッドに倒れ込んだ。自分の体温が残った布団の存在が何故か愛おしく感じる。
「おまえも寝惚けることあるんやな」
「しょっちゅうっすよ」
 目だけを動かすと、生駒の部屋だった。ここに泊まるのは金曜日か土曜日くらいだから、そのことからも今日が平日ではないということは分かる。
 そもそもスマートフォンのアラームで毎朝起床しているのだからそれが鳴らなかったということは休日ということだ。
 思考を巡らせる水上の様子を生駒はじっと見つめていた。見守っているとも観察しているとも受け取れるような微妙な距離感。表情だけで彼の感情を読み取るのは難しい。
「そんなに俺の間抜けな格好がおもろいですか?」
「いや、おもろいっていうか。今まで見たことない一面見るんは嬉しいやろ。ランク戦や勉強以外でそんな考え事するん珍しい思うてな」
 生駒が自分の髪の毛に手を入れた。水上が考え事をするときの癖だ。
「そんな大したもんちゃいますけど」
「今フレンチトーストを焼こうとしたとこや、そんで起こしに来た。顔洗ってテーブルで待っとれ」
 はよ服着てくれ、目の毒や。そう言って背中を向けた生駒の言葉を水上はすぐに理解することができなかった。
 冷たくなった上半身をさする。腕や胸元に眺めると鬱血の痕が散っていた。これは一体。
 目を閉じると昨夜の出来事が脳裏に浮かんだ。明日は休みだから少しくらい羽目を外してもいいだろう、なんてことを言った気がする。それよりもっと過激な言葉も。
 喉や腰の違和感の正体に気づいた水上は自分の目を掌で覆った。意識が鮮明になると昨晩の出来事もつい先ほどのことのように思い出すことができた。記憶力がいいというのも時と場合による。
「……あぁ」
 羞恥や自分に対する失望など雑多な感情を込めた吐息は誰に聞かれることもなく消えた。
#ワールドトリガー #いこみず

コンビニ(WT/いこみず)


ワールドトリガー』生駒達人×水上敏志。いこみずワンドロワンライ第21回に投稿した作品。疲れたときには甘いものを食べましょう。
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 三十分もしないうちにみんなは訓練や打ち合わせから戻るだろう。壁時計を見上げた水上はすぐに視線を端末に戻した。
 何度目かの溜め息を漏らした。ランク戦の記録は解説がついておらず、自分で全ての映像を確認しなければならないのでなかなか骨が折れる。といって全てを観戦するのも現実的ではなく、この地道な作業を続けるしかないのだが。
 机の上にあった袋飴を一つ口の中に放り込む。じゃりじゃりと固形物をすり潰す音が頭の中に響く。固く乾いた飴も換装体なら簡単に噛み砕くことができる。
 安物の人工甘味料がじんと脳に響く気がした。飴の甘さや強さは感じるのに欠片が頬の内側に刺さる痛みはないという不思議な感覚。まるで未知の食品を味わっているようだった。
 スナック菓子をつまむように飴を食べていた。部屋の隅にあるゴミ箱に行くことを横着したせいで、手元には飴袋の小さな山ができていた。
 気が削がれて指先で飴袋をもてあそんでいると作戦室の扉が静かに開いた。水上を認めた生駒が、おう、と軽く挨拶した。
「っす」
「飴が好きなんか?」
 飴袋に気づいた生駒が問いかた。そう思われても仕方ないくらい食べている。
「いや別に。ただ口寂しかったんで」
「……キスしたろうか?」
 会話のキャッチボールというにはやや遅れたタイミングで漏らした生駒の言葉は場違いなものだった。真剣な面持ちで言われると全く冗談に聞こえないのだが、公の場でそんなことをする人ではないと分かっている。
「気持ちだけ受け取っときますわ」
 水上の隣に立った生駒は飴袋を掴んでそのままゴミ箱に向かった。いつも賑やかで物も多い作戦室だが一定の清潔さは保っている。
「ありがとうございます」
「こんなに甘いもん食うて疲れとんやろ」
「ずっとトリオン体でおったのに関係ありますかね」
「おまえは人の何十倍も頭使うやろ」
 彼の背中越しに行う会話は日常そのものだった。
「みんな帰ってくるんにまだ時間かかるやろうから何か買ってくるわ。いるもんある?」
「別にないっす」
 くるりと生駒が水上を振り返った。一つ二つと指を折って何か数えている。
「ほな俺のおすすめ買ってくるわ。今どこのコンビニでもいちごフェアやってん。セブンイレブンの『めちゃハピいちごフェア』ええで。テリーヌとシュークリームは食ったからはよ制覇したいわ」
 商品の入れ替わりが激しいコンビニ商品を把握しているのは意外だった。好奇心旺盛でまめなことだ。そのときあるものを買うだけの水上とは対照的だ。
「イコさん、生菓子も好きなんすか」
「ウマいもんは何でも好きや。スイーツも作れるようになりたいしな。そのためには味も知っとかなあかんやろ」
 彼が菓子を作るところなど見たことはないのに、何故かその姿は自然と思い浮かべることができた。彼が料理するところは何度も目にしたがゆえに。意図せず口元が緩む。
「なんかおかしいか?」
「いや、可愛いなあ思うて」
「誰が」
「イコさんが」
「疲れてどっかネジ飛んだんちゃう?」
「いちご商品ってどれもピンクで可愛いやないですか。それ食うイコさんも可愛いですよ。見たことないですけど多分」
 そんなに褒められたら照れるわ、と頬を掻く彼の表情も声も平時と何ら変わりない。
「でもコンビニよりイコさんが作ったもんが食いたいです。今度なんか作ってください」
「まだ人に出せるようなもんはないぞ。ホットケーキ焼くくらいや」
「じゃあそれで頼んます」
「分かった。……っと、はよ買い出しに行かなみんな帰ってくるな。ほな行ってくるわ」
 作戦室を出る生駒の背中を見送る。自動扉が閉じると部屋はまた無音に戻った。
 停止したままの動画に目をやる。気怠さが消えることはなくても、この後の楽しみを想像すると仄かに気力が湧いてくるのを感じた。
#ワールドトリガー #いこみず

名前を呼ぶ(WT/神外)


ワールドトリガー』神田忠臣×外岡一斗。普段名字呼びしている二人が名前を呼びあうだけの話。
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 着信音が通路に鳴り響いた。自分のポケットに手を当てるがバイブレーションは反応していない。
 ちらりと視線を横に向ける。すぐ隣の外岡は眉を顰めて自分のスマートフォンを凝視していた。画面には「母」という文字と電話番号が表示されている。
 神田の視線に気づいた外岡は余所行きの顔を作り直した。気怠げな雰囲気を中和するように微笑んでいる。
「ちょっとすみません」
「いいよ」
 神田が手を振ると一度頭を下げた外岡がこちらに背中を向けた。そしてその数秒後。
 ――一斗。
 女性の優しい声が聞こえた。盗み聞きするつもりはなくても無音の廊下には声がよく響くのだ。
「なに?」
 温かみのある声に反して外岡は落ち着いていた。まるで寝起きで意識がはっきりしていないような脱力した声だった。
 外岡と両親の仲は良好だ。だからこそのぶっきらぼうな対応なのだろう。こういう態度の違いを目の当たりにすると、自分は彼にとってまだまだ他人なのだと実感する。
 冷たくされたいわけでもないし、肉親として扱ってほしいわけでもないのだが、疎外感のようなものを感じる。
「うん。うん。大丈夫、まだある。子供じゃあるまいしもういいって」
 問いかける母親の言葉をなるべく聞かないようにしても、彼の後ろ姿は視界に入る。
 肩幅に対して細い腰に手を当てて、指先は脇縫い線やポケットを行き来している。板のように平らな尻、そこから伸びる脚を退屈そうにぶらぶらさせていた。身振り手振りして話すタイプではないと思っていたのに意外だ。
 いつもきっちりセットしているのに、昼寝でもしたのか後頭部の髪の毛がいくつか跳ねていることにもたった今気がついた。
(まだ子供じゃないか)
 思っても口にはできないが、自然と頬が緩む。
「今訓練の途中だから。じゃ、来週」
 相手の返事を聞く前に終話ボタンを押した外岡が神田を振り返る。何もなかったかのようにさっきと同じ距離に戻ってさっきと同じ表情を浮かべている。こうも露骨だと反応に困る。
「ども、お待たせしました」
「俺のことは気にしなくていいのに」
「いや、こっちが長話したくなかったんで。メシ食ってるか、宿題してるか、遅刻してないか、米はまだあるか。そんな電話がしょっちゅうかかってくるんスよ。いい加減にしてほしいんスけど、ちゃんと話するって約束したんで」
「そりゃ親御さんは心配するだろ。スカウト組や家を壊された奴ら以外で一人暮らしする高校生って少ないからな」
 いつが最後のやりとりになるか分からないから親しい人との会話はささいなことでも大切にしたほうがいい。これは自戒である。
「はい。実家住まいか一人暮らしか選べるだけ贅沢って分かってます。でも、こんだけ回数が多いと疲れるんスよ。家を出るときより母さんとの会話が増えたもんなぁ」
 スマートフォンをポケットに入れた外岡がふうと溜め息をつく。伏せられた睫毛の淡さに息を呑む。
「一斗」
「……はい?」
 鳩が豆鉄砲を食ったように外岡は目を見開いている。神田自身も突拍子のない発声だと分かっていたので慌てて言葉を繋げた。
「いや、おまえのお母さんがそう言ってたなあって」
「自分の息子なんだから名前くらい普通に呼ぶでしょ」
「そしたら俺も呼びたくなった」
 じわりと顔に熱がこもるのを感じる。自分でも幼稚な理由だと分かっていた。頭を掻く神田をにやついた外岡が見上げている。
「可愛いとこあるなぁ、忠臣さん」
 赤子をあやすような甘い声で揶揄される。どうせならもっと違ったシチュエーションがいいのだが、そのとき彼はおそらく神田の名前を呼んでくれない。
 浮ついた気持ちを静めて、意識して声を低くした。
「そういや、俺がののさんを名前呼びしてるの嫉妬したりしないのか?」
「全然。意識したこともなかったっス」
「そこまで断言されると寂しいな」
「二人とも旧弓場隊時代からの付き合いだし、何もやましいことはないって分かってるんで」
「信頼されてるって解釈しとく」
「はい。……って! もうこんな時間っスよ」
 通路に備えつけられた時計を指差す。急がなくても作戦室には予定時間より早く着くと分かっている。
「なあ一斗」
「なんスか、神田さん」
 その声にも動作にもさっきまでの甘さはない。
 遠すぎず近すぎずのちょうどいい距離。いわゆる「仲のいい先輩と後輩」という枠に収まっていた。
 そんな当然の事実が神田の胸に引っかき傷を作った。
#ワールドトリガー #神外

年の瀬(WT/いこみず)


ワールドトリガー』生駒達人×水上敏志。いこみずワンドロワンライ第19回に投稿した作品。事後描写あり。三門で年末を過ごす二人。
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 立てつけの悪いドアが開いた音を聞いた水上は目を開けた。逢瀬の名残に浸っていた意識が浮上する。
 生駒が下着姿のままこちらに歩いてくる。滴り落ちそうなほど水をまとわせて、まるで子供の行水のようだ。
 彼がベッドに腰を下ろすと、二人分の体重が乗ったベッドがぎちりと軋んだ。
「家以外で年越すん初めてや」
 生駒がぽつりと漏らした言葉は独り言なのか水上への語りかけなのか判断することができなかった。
「なんやいきなりですね」
 水上が一応調子を合わせる。ベッドに横臥したままの水上を生駒が見下ろしている。
 もう一言発しそうな気配を水上が察したと同時に生駒が倒れかかった。呼吸が止まるほどの衝撃が胸を貫く。戯れのつもりなのだろうが、男一人の体重を無警告で受け止められるほど水上は頑丈ではない。
「……おわっ、重い! てか痛いんすけど!」
「すまん」
 あまり反省していなさそうな顔つきで生駒は水上の上半身に腕を回した。表情の変化が乏しいせいで生駒の言動はいつも唐突に見える。
 入浴直後のせいか、それとも情事の熱が燻っているのか、シーツ越しでも火照りを強く感じた。他人の体温に触れ、じりじりと情欲が炙られる。
「今まで年末いうたら特番見ながら蕎麦食うて、年明けたら初詣に行くんが普通やった」
「……俺もそんな感じでしたよ」
「でも今年は防衛任務。こんな冬を迎えるとは思わんかった」
 生駒は水上の身体を抱きしめながらその首筋に顔をうずめた。耳の下に熱い吐息がかかってくすぐったい。
 見た目に反して随分可愛らしい甘え方だった。先ほどの衝迫はすぐに鳴りを潜め、春の昼のような温かい気持ちが満ちた。力が強いうえに重いのが甘い雰囲気を壊しているというのはこの際無視する。
「なんやイコさん、家が恋しいですか?」
「たまに通話しとるからそんなことはないけど、なんか変な感じはするな」
「俺も。お年玉もらえんのは残念ですけど、ここにおったら年末年始は手当てが出るから悪うないすわ」
 宥めるように生駒の頭を撫でた。半乾きの髪の毛に手櫛を通すとひんやりした感触があった。本人の意志をそのまま反映したような髪は硬く真っ直ぐだ。
「家族以外と過ごす年末もええな」
 おそらく生駒は己の心情をありのまま述べているのだろうが、真剣な眼差しで告げられるといたたまれなくなる。それこそ殺し文句のように聞こえるのだ。
「年明けるまでここにおりたい」
 同じ寮住まいでも未成年は日が変わる前に帰宅すべしと己を律していた生駒にしては珍しい申し出だった。恋人と一緒に年を越したいなどというロマンチックな願望はないが、それでも水上としては断る理由などどこにもない。むしろ。
「どうぞ、こんな部屋でよかったら好きなだけおってください。っていうかもうすぐ十二時やし」
 水上が指を指した壁時計は午後十一時を刻んでいた。ちょうど生駒が退去する時間が今ぐらいだ。
「ほな、俺も風呂浴びてきますわ。すっきりして元旦迎えましょ」
 上半身を起こした水上が生駒に場所を譲った。下着を身につけて床に降りると、足の裏に痺れるような冷たさが伝わった。情事の余韻も一気に消し飛ぶようだった。
 じっと水上を見上げている生駒が口を開いた。
「よいお年を」
「一緒におるのにそんなん言わんでええでしょ」
「おまえがシャワー浴びとる間に年が明けるかもしれんやろ」
「いや、俺がそんな長風呂せんの知っとるでしょ」
 柔らかくて穏やかな空気はすっかり消し飛んで日常に戻った。しかし、それを寂しいとも虚しいとも感じることはなかった。今後もこんな営みは繰り返されるのだろうから。
 足元に落ちていた生駒のジャージを拝借した水上は身を清めるために部屋を出た。
#ワールドトリガー #いこみず

人の気も知らないで(WT/神外)


ワールドトリガー』神田忠臣×外岡一斗。事後描写あり。キュートアグレッションに苦しむ神田。
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 ベッドの縁に腰をかけて息をつく。床はひんやりしていたが、発熱する身体にはちょうどよかった。事後の気怠さは不快なものではなく、夢とも幻ともつかぬ余韻に浸っていた。
 そんな神田が不穏な気配を感じて振り返ると、目前に外岡の足が迫っていた。すんでのところで受け止め、不躾な足の裏を握りしめた。
 今後の成長を予感させるそれは広くて男らしいが、面積のわりに薄くて平べったい。まるで持ち主の身体つきのように。
 外岡の足の裏がぐいぐいと神田を押す。体格差はあれど外岡に下半身の力を使われたら神田とて無事では済まない、はずだった。力が入らないのか太腿の内側を震わせるだけで、抵抗と言えないただの戯れになっていた。
 親指より人差し指のほうが長い独特の形をした足がすぐ眼前にある。外岡の身体は彼自身が見ることができない場所も含めて知っているつもりだったが、ここはあまり眺めたことがなかった。
 薄い皮膚の下に張り巡らされた血管を愛おしむよう足の甲に口づける。外岡は下半身ごとびくりと震わせ、神田にかけていた足を引っ込めてしまった。
 ベッドに横たわったまま半眼になって神田を見上げている外岡から謝罪の言葉はない。先ほどまで睦み合っていたとは思えないような冷たい眼差しだ。
「人の頭を蹴ろうとするとはいい性格してるな」
「肩を狙ったつもりが外れました」
 吐息だけで発する言葉は覇気がなく掠れていた。
「目つきがいやらしい、手つきが変態っぽい、ていうかおっさんっぽい」
「……」
 人当たりのいい外岡らしくない態度の理由が分かっているだけに神田は何も言い返すことができなかった。
 長時間神田を咥えこんでいたせいで未だ緩んだままの秘部はローションでぐっしょり濡れていた。腹は体液でべとべとになっている。全身に浮いた汗は乾く気配がない。
(おまえもさっきは乗り気だったのに……)
 一方的に悪者にされて思い浮かんだ言葉をぐっと飲み込んだ。情熱的に愛し合った、と表現するには惨たらしい有様だったので。
 床に落としたブランケットを拾い上げて外岡にかけようとすると、彼は身体を動かした。
 気怠げな動作とは裏腹に筋肉はしなやかにうねり、微妙な陰影が浮かぶ皮膚。肉がついていないせいで細長く見える手足。神田のものを収めるには薄く浅く頼りない腹。鬱血の痕がいくつも散っている脚の付け根。
 まじまじ観察していると腹の底から再び獣欲が湧いてくる。神田は頭を振って性衝動を追い払った。
 外岡の腰までブランケットをかけて神田も添い寝するように横たわった。視線の位置を合わせると、力のない目が神田に向いた。前髪が落ちた目元は腫れぼったくなっている。
「神田さんは、親しくなった相手には遠慮しなくなるタイプ?」
「これでもかなり気ぃ遣ってるつもりなんだけど」
「じゃあもっと加減してください。壊れちゃうんで」
 囁くような声が脳内に響く。外岡の手がこちらに伸びて、神田の肩や腕を触った。暗闇で手探りするように何やら確かめている。
 一通り神田の上半身を撫で回してふう、と息を漏らした。嘆いているのか感心しているのか神田からは判断できない声色だった。
「……いつか壊される気がする」
「そんなことするわけ、ないだろ」
 責める口調ではなかったのに心臓が縮むようだった。
 彼を大事にしたいという気持ちはある。尊重しあって高めあう仲でありたいと願っている。それらは偽りない本心であるにも関わらずはっきり否定できなかった。
 抱き返すようにして外岡に触れると、肌が冷たくなっていた。ブランケットを肩までかけてやり、神田も一緒にくるまる。互いの熱を分け合い、温かな空気が布の中に広がる。外岡は心地よさそうに目を細めた。
 彼の腕を掴む。斬られようが撃たれようが傷を負うことはない換装体とは違い、今は鬱血の痕が点々と残る。神田がつけた疵だ。
 トリオン体では腕利きの狙撃手でも、今の彼は神田が加減してやらなければ壊れてしまうかもしれない脆弱な身体の持ち主なのだ。
 神田の胸に顔をうずめるようにして外岡は目を閉じていた。呼吸音は一定のリズムを刻み神田の肌を伝っていく。つい先ほどまで憎まれ口を叩いていたとは思えないほど穏やかな表情で身を委ねていた。
「神田さんならいっか……」
 諦めているとも興味がないとも受け取れるような抑揚を欠いた声。半ば眠りに入った外岡の言葉から感情を読み取るのは困難だった。
 己の選んだ道に後悔はなく、自分がいなくても彼なら独りでやっていけるという信頼もある。
 安心して命を預けられる仲間であり可愛い後輩であり愛おしい情人である。複雑な人間関係を既定の言葉では表現できないし、するつもりもない。
 何も心配することはないと自分に言い聞かせる。
 事後の甘い空気が部屋を満たし、時間は穏やかに流れていく。それらは神田を癒やすものになり得なかった。
#ワールドトリガー #神外